* * *
レエスの緞帳(カーテン)で飾られた天蓋つきの寝台で瞳を閉じて横になっていた桜桃は、柚葉に揺り起こされて、ゆっくりと瞼をあげる。「動けるか?」
どこかで衣類を調達してきたのだろう、濃紺のシャツ姿の柚葉が桜桃に問う。
こくりと頷いて、立ち上がる。けれど、身体はまだふらついている。見かねた柚葉は桜桃の肩を抱きかかえ、ゆっくりと歩き出す。 裸足のまま、寝室を出る。ぬるりとした冷たい感触が、足元を浚う。 廊下は、血の海だった。 これだけの血で汚れているのは、転がっている死体すべてが頚動脈を掻ききられていたからだろう。桜桃の知る兵隊のような使用人たちが、重なるように動かなくなっている。 桜桃はおおきな瞳を更におおきくして、廊下の惨状を見つめる。「この屋敷の使用人は、皆、殺されてしまったんだ……」
信じたくなかった。けれど頭の片隅でその可能性を考えていた。だから桜桃は柚葉の言葉に反論せずに黙ってその光景を漆黒の眼の中に焼き付ける。
「あたしの、せい、でしょ?」
蒼褪めた表情で、柚葉を見上げ、桜桃は確認をとるように、口をひらく。
自分がここにいてはいけない人間であることを、知っていながら、知らないふりをつづけて別邸で暮らしていた桜桃は、いまになって起こってしまった現実に、戸惑いを隠せない。 柚葉は肯定も否定もせずに、桜桃の肩を抱く手に力を込めて、滑りそうな螺旋階段を一歩一歩、くだっていく。* * *
「無事だったか、嬢ちゃん」 「湾さん!」玄関の前で待機していた湾は、柚葉に抱えられて外へでてきた桜桃を見て、安堵の溜め息をつく。湾の姿を見つけた桜桃も、嬉しそうに声を弾ませる。
だが、いつもの桜桃を知る湾は、彼女が本調子でないことに気づいている。「……大変なことになっちまったな」
「うん」しょんぼりうつむく桜桃のあたまをくしゃりと撫でて、湾は柚葉に向き直る。
「お前がいながらなんてザマだ」
きょとんとする桜桃と、不機嫌そうに唇を尖らせる柚葉。
「……ま、過ぎちまったことは仕方ない。まずは嬢ちゃんを安全な場所へ連れていく。そのために俺を呼んだんだろ?」
湾は悔しそうに柚葉が頷くのを見て、桜桃を背負う。桜桃も当然のように湾のおおきな背中に乗っかり、柚葉を見下ろす形で泣きそうになるのを堪えて、笑いかける。
「ゆずにい、ごめんね」 「ゆすらが悪いわけじゃない。いつかこうなることを知っていながら阻止できなかった俺がいけないんだ」 「……やっぱり実子(さねこ)さまなの?」 愛妾の娘である自分を疎み、顔も見たくないと幽閉した正妻を思い浮かべ、桜桃はかなしそうに尋ねる。「たぶん、天神の娘が生きていることを知った古都律華の連中に唆されたんだろう」
湾がつまらなそうに声をあげ、柚葉の顔色をうかがう。
「セツの忘れ形見だからな」
ふたりのやりとりを横目に、桜桃は湾が口にした単語を反芻させる。
「……古都律華が?」 それは、世間知らずな桜桃でも知っているこの国を二分する政界勢力のひとつだ。 だが、どうして桜桃が古都律華に狙われなくてはならないのか、理由がわからない。むしろ正妻が主の留守の間に事故にでも見せかけて殺す方がよっぽど現実味がある。「ゆすら、今は詳しく話す時間がない」
桜桃が考えていることがわかったのだろうが、柚葉は湾を促し、洋館から立ち去らせる。
「あとで追いつくから」
「ゆずにいはいっしょじゃないの?」てっきり一緒に来ると思っていた桜桃は、泣きそうな顔で異母兄を見つめる。
「うん、このままにはしておけないから」
そう言って、柚葉は踵をかえす。
「……ったく、律儀な奴」
湾はいまにも自分の背中から飛び下りて柚葉を追いかけそうな桜桃を抱え、毒づく。
「嬢ちゃん、坊のことが心配なのはわかるが今は自分の心配をしてくれ。このまま殺されたら元も子もねーだろ」
「……うん」抵抗するのを諦めた桜桃を背に、湾はゆっくりと花橘が香る森を駆けていく。背を向けることはしない。
「屋敷の後始末なら坊がしてくれるから安心しろ。なあに、火を放つだけさ」
惨劇をなかったことにするため、別邸を焼ききれば、すこしは時間稼ぎになる。奴らはきっと桜桃が死んだと思うだろう。だが、確実に殺したことがわからない限り、古都律華の人間は天神の娘である桜桃を追い求めつづけるだろう。湾は背中の温もりを感じながらひたすら小道を駆ける。
「いまは、逃げて、生きのびることだけ考えろ。そしたら話してやる、天神と古都律華のこと」
湾の言葉に、桜桃は強く頷く。
まずはここから逃げ出して、生きのびないとはじまらない。それは事実だから。もう、天神の娘である桜桃を狙う人間はいないはずなのに、小環は相変わらず彼女の傍にいてくれる。将来を誓い合ったわけでもないのに、始祖神の末裔である次代の神皇と至高神に血を分けられた天女が愛し合い結ばれるのは自然の帰結だからとカイムの民は桜桃と小環が一緒にいる姿を心の底から嬉しそうにして見守っている。四季や柚葉のように求婚こそしてないが、小環も考えてはいるのだろう。現に、小環は彼女の傍にいる。 周囲の人間にあれこれ口出しされるのは正直、煩わしく思う時もある。けれど、周囲の反応も含めて、桜桃にとって小環は運命のひとなのだと、痛感する。 そして自分もまた、そんな彼に強く惹かれ、離れがたく思っているのも事実。「……ありがとう、傍にいてくれて」 同じ部屋で同じ時を過ごし、同じ出来事に立ち向かった同志。カイムの民が歌う神謡のように、睦みあい結ばれる未来がその先にあるのかはまだわからないけれど。「お望みでなくても、ずっと傍にいてやるよ」「それはあたしが天女だから?」「それもある」 柚葉だったらそんなことないよって真っ先に言うだろうに、小環は莫迦正直に応えてしまう。その素直なところは、桜桃は実は嫌いではない。「じゃあ、ほかにも理由があるの?」 意地悪そうに問い詰める桜桃に困ったように顔を向けた小環は、わかってるくせに、と小声で呟いてから、桜桃の耳朶を燻らせる甘い囁きを言葉に乗せて、彼女に反論させないよう唇を重ねてくる。 許した覚えはないのに、最近の小環はこうして戯れに愛を囁くのだ。「……小環のいじわる」 桜桃は頬を膨らませながら、呆れたように言葉を返す。小環は知ってる、と笑いながら彼女の髪を、やさしく撫ぜようとするが、どこからともなくやってきた突風に煽られて、上手に掬えない。桜桃もその花散らしの風に驚き、上空で繰り広げられている花びらの乱舞に目を瞠る。 それはまるで、四季の彩りに魅せられた神々が、その血統に連なるふたりが仲睦まじく寄り添う姿を嫉妬するかのよう。「なんか、四季
ずっと、呼びたくて、呼べなかった名前。 桂也乃は神嫁御渡で神に贄として四季との思い出を捧げてしまったかのように、あれ以降、四季の名を口にすることはなくなってしまった。忘れてしまったのかもしれない。けれど、彼女はこの先も季節が廻る喜びを、夫となるひととともに分かち合うことで、彼を偲ぶのだろう。 雁もまた、四季との記憶を忘れていた。たぶん、最後にふたつ名で暗示をかけられたのだろう。解いてあげようかと小環が尋ねても、彼女は逆さ斎がしたことだから、そのままにしてあげて、と首を横に振ったのである。微笑みながら。 式神だったかすみは、椎斎にある逆井本家に引き取られていった。彼女を養っていた鬼造の人間の多くが憲兵によって帝都へ連行されてしまったからだ。 鬼造みぞれは帝都の親戚のもとで新たな生活を始めている。だが、妹のあられはこの地に残り、恋人の雹衛の故郷である『雪』に身を寄せ、彼と穏やかな暮らしを手に入れた。「……しっかりしていたなぁ、かすみさん」 今後は神職に携わって、四季が頼りにしてくれた自分のちからをこの土地のために役立てたいのだと、桜桃たちに決意を見せてくれた十三歳の少女を思い出し、溜め息をつく。 それに比べて自分は、何もできていない。春を呼ぶことはできたけど、それだって自分ひとりのちからではない。四季や桂也乃や小環が水面下で動いてくれたから、自分も羽衣を選びとって空を翔けることが叶ったのだから。 幼い頃から傍にいてくれた異母兄はもう桜桃を慰めてくれない。彼の強すぎる想いに恐怖し拒んだのは自分だが、それに絶望して死を選んだのは彼なのだから、桜桃は悪くないんだと周りの人間は言ってくれたけれど…… がさり。 腰を下ろした足先で盛りを迎えた満天星躑躅どうだんつつじの白い花木が左右に揺れた音で、桜桃は我に却る。「ここにいたのか」 湾が忘れ物でも取りに来たのだろうか。いや、違う。桜桃は顔を赤らめる。「……小環」 あたしが選んだ羽衣。天女の伴侶となる資格を持つ時の花……神皇の蕾を持つひと。 相変わらず、女装のボレロ姿のままで、何
足元には芝生の緑が拡がっている。冠理女学校、園庭。雲ひとつない空を見上げれば桜の花びらが風に舞って潔く散っていく。遅い春を迎えた北海大陸には、すでに短い夏の気配が自己主張をはじめていた。 花残月(はなのこりづき)の終わり。帝都はすでにじめじめとした雨季に入っているという。そんなときに婚儀を行おうとするなんて、と桜桃は呆れていたが、桂也乃と朝仁の決意は揺らがない。 あれから。桜桃と小環がカイムの地へ春を呼んで一月が経過した。 伊妻の残党狩りは柚葉の自死によって幕を閉じた。空我侯爵家は事実上取り潰され、後の管理は梅子と向清棲幹仁のもとで行われることになった。どうやら、梅子と幹仁は今回の騒動を通して懇ろな関係に至ったようだ。梅子の夫の喪が明け次第、ふたりは籍を入れるだろうと梅子と義妹関係にある桂也乃は教えてくれた。 柚葉と実子が死に、空我と名乗るのは桜桃だけになってしまった。仕方がないことだとはいえ、淋しい。 桂也乃はやはり無理をしていたようで、しばらく救護室で今度こそおとなしく過ごしていたが、婚約者の朝仁に早く応えたいからと今朝になって帝都へ発っていった。 梧種光と鬼造が支配していたこの女学校は、一時的に湾が代理として働いている。伊妻と繋がっていたとされる一部の人間は憲兵に連れられてしまったが、純朴なカイムの民は経営者が変わっただけだと素直に受け入れ、湾たちのやり方に従っている。『神嫁御渡』などというふざけた儀式はなくなったが、いまもワケあり華族のお嬢様を中心とした花嫁修業は粛々と行われているのである。「いきなりなくなったら、困る人間がいるからさ」 と、湾は苦虫を噛みつぶしたような顔で説明してくれたが、桜桃にはその辺の事情はよくわからない。ただ、自分はもうしばらくここで小環と一緒にいられるのだと言われて、なぜかほっとしてしまった。「いいの? 小環は男なのに」「いいの。親父の命令だから」 北海大陸に残った湾はからから笑って、桜桃の不安を吹き飛ばしてくれる。柚葉を失って、彼も複雑な気持ちでいるはずなのに。 梧種光と慈雨は帝都に身柄を移
「銃を捨てなさい、空我柚葉」 ……柚葉が発砲した弾は小環の傍に桜桃がいたからかおおきく外れ、空の向こうへと消えていった。 柚葉が発砲した拳銃の音に、あらたな人物が集いだす。朱色の椿の刺繍が施された黒振袖を着て背筋を伸ばしている少女と、彼女を隣で支えている袴姿の少年。そのふたりを囲うように皇一族直属の陸軍兵士の姿がある。彼らを率いてきたのは湾だった。「……桂也乃さん?」 こんな格好をしていると、まるで異母姉の梅子みたいだ。「なんとか間に合ったわね」 桂也乃は桜桃たちに向けてにこりと笑いかける。病みあがりだからか、顔色は悪い。「空我柚葉。伊妻の生き残りの娘である慈雨と彼女の養父梧種光とともに皇一族に対する反逆をみなしたものとして、神皇帝の名のもとにそなたを捕えさせていただく」 軍服姿の湾が他人行儀に柚葉を呼び、高らかに宣言する。水面下で怪しいと睨んでいた柚葉はやはり黒だった。伊妻の残党とつるんで小環皇子に向けて銃口を向けている姿が、すべてを物語っている。 柚葉は銃口を桜桃と小環に向けたまま、動かない。すでに抵抗する気のない慈雨と種光は女学校にいた『雪』の私兵と湾たちによって集められた憲兵や陸軍兵士によって身柄を拘束されている。だが、首謀者である柚葉を捕えようとする兵士の姿はない。下手に動いて小環皇子と天神の娘を傷つけることを恐れているからだ。 湾は銃を捨てろと押し殺した声で命じてから、憐憫を交えた表情で、さびしそうに付け足した。「天女が選んだ時の花は、お前じゃない」 その、かなしい言葉に、柚葉がぐらりと視線を揺らす。「ゆずにい」 桜桃は思わず柚葉を呼んでいた。「ゆすら、嘘だろ」 柚葉は視点の定まっていない漆黒の深い闇を思わせる双眸を震わせながら、桜桃を探す。自分が愛する異母妹の、理想の姿を。「ごめんなさい」 ――見つけた。可愛い桜桃。僕だけの女神。どうして謝っているの? どうして僕を怖がっているの?
「なぜだ! 春を呼ぶ天女になどならなくても、ゆすらには僕さえいれば良かったんだ! なのに、その男が此の世に栄華を招く天女を愛する伴侶だ? 羽衣だ? 信じない、信じないぞ。この世界に春を呼ぶのは僕とだ。そうだろう? ゆすら?」 いまにも泣きだしそうな柚葉を見ても、桜桃は彼を受け入れることができない。自分と一緒にいたら、彼は壊れてしまう。彼はその程度の人間じゃない。そう思っていたけれど。 柚葉は桜桃が鳥籠から放たれる前から、壊れていたのだ。異母妹を法的に自分のものにするためだけに、ついには国家に反逆する伊妻の残党と手を組んでしまった…… 信じたくなかった。けれど、彼は桜桃のふたつ名である咲良の名で、彼女を縛り、天女の羽衣である小環を殺させようとした。慈雨たちと手を組み、小環ではなく自分が春を呼ぶ天女の羽衣になろうとした。 幼い日に桜桃が慕っていた柚葉は、もういない。「……ゆずにい」 桜桃は憂える視線を柚葉に向け、申し訳なさそうに囁く。ごめんなさい。「あたしはもう、あなたがいる安全な鳥籠に戻れないんです」 そう、口にして桜桃は小環の手をぎゅっと握りしめる。「あたしがともに春を呼びたいと希う男性ヒトは、あなたではなく、小環だから」 宙に漂っていた桜桃と小環はゆるやかな曲線を描きながら地面へ降り立つ。ふたりが立った場所から、勢いよく芽吹きの緑が残雪に塗れた暗い土を覆い尽くし、一斉に色とりどりな花芽をつけ、そこから風船のように蕾を膨らましたかと思えば破裂する。 弾けた花々は青と白の世界に新たな彩りを加え、隠れていた小鳥たちが歓喜の歌を囀りだす。まるで雨上がりの七色の虹のように美しい光景が天と地を結びつけ、睦み合う。 聴こえる。新たな四季の訪れを識ったカイムの民が、春を呼んだ天女と彼女をちからなき天神の娘から覚醒させた時の花という名の羽衣を生み出した始祖神の末裔を讃え、言祝ぐあの神謡(うた)が。 光と色の洪水は止まらない。雪はみるみるうちに解けはじめ、校内に植わっていた梅や桜の花々が狂い咲きをは
鋭く瞳を煌めかせ、雁は己に封じられた真のちからを発揮させる。まるで兎を罠へ追い詰める猟犬のように、慈雨を狙って氷雪の檻を編み出し、これ以上手だしできないよう種光とともに閉じ込めてしまった。「この程度のもの、すぐ壊してやる……っ!」 冷たい檻に囚われた慈雨と種光は抜けだそうと試みるが、『雪』に対抗できる強大なちからを持たないふたりは分厚く透明な氷の壁に阻まれたまま四苦八苦している。 慈雨たちが氷雪の檻から抜け出す前に、桜桃の暗示を解かなくてはならない。雁は声を荒げて桜桃と対峙している小環に向かって叫ぶ。「――篁さん、早く!」「……Nennamora teeta rehe tane rehe erampeuteka」 小環の唱える声が、上空で蝶のようにひらひらと飛びながら氷の矢を放っていた桜桃の動きを制止させる。「その名を呼んでいいのは僕だけだ! お前などに彼女を呼ぶ資格はない!」 宙でぴたりと止まった桜桃に、柚葉がなおも声をかけるが、額に星の花を咲かせた天女の耳には届いていない。「〈昔の名と今の名を〉――ノチュウノカたる始祖神の末裔オダマキが命ずる。天空の至高神の加護持つカシケキクの者よ、縛られしふたつ名をその身より解き放て!」 界夢の地から去る際に、逆さ斎が教えてくれた、桜桃のなかに潜む天女のちからを呼び出す、ふたつ名を心に浮かべ、小環は強く念じる。 ――咲良のちからを持つ桜桃、俺に応えろ! ぴたりと止まっていた桜桃の白い西洋服の裾が、風に揺らめく。いまは亡き『風』の部族、レラ・ノイミが小環に味方したかのように、あたたかく、心地よい風が、カイムの地をサァアアアアアッと通り過ぎていく。 そして、冴え冴えとした冬の蒼穹は黄金色に煌めく太陽によって淡く白く塗りつぶされ、やわらかい水色の空へと変わっていく。 額に星の花を咲かせた天女の瞳の色も、優しい榛色……いつもの桜桃の虹彩に戻っていた。そして、桜桃に導かれるように小環の身体が浮かび上がる。